あたりまえを徹底的に疑ってみる

なんで勉強しなきゃいけないの?
なんで人を殺しちゃいけないの?
なんで核戦争をしちゃいけないの?
なんで著作権をまもらなくちゃいけないの?
なんで二酸化炭素排出をしちゃいけないの?
なんで税金をはらわなくちゃいけないの?
なんで土地の所有をみとめるの?
なんでお金の価値を信用しなくちゃいけないの?
なんで国ごとにお金がわかれてなくちゃいけないの?



そういうものだ!と断ずることは簡単。
なぜそうなっているのか?とか、なぜそうしたほうがいいのか?とか、それは恒久的なものなのか?とか、通念や一般概念化していればいるほど本質に対して疑問を抱くのは大変。「あたりまえ」というのは、あたりまえであるが故に疑問に思うことさえムズカシイ。究極にはあたりまえは認識できなくなる。


自然科学のような再現性があり観測可能な法則ですら本質にたどり着くのは難しい。
再現が難しい人間社会で一般化されたものはなおのことその本質にたどり着くことが難しくなる。
リンゴが落ちるのを不思議に思う人は無垢か無知か変人かだ。みんなが変人では困るが、みんなが常識人では発展はない。


体験可能なあたりまえ

勉強するとどうなるか?とか、人を殺したり傷つけたりするとどうなるか?ウソをついたらどうなるか?など、観測や体験が容易なことについては一般概念化しやすいといえる。


「なんで勉強しなきゃいけないの?」というのは、先達の経験則や他人の人生から観測することができるので、具体例をもって「確率的に」成功しやすいと認識ができる。模倣が簡単なところまで形式化すると「あたりまえ」となり本質からはなれても機能するようになる。別に理由なんか知らないけど、勉強したほうがいいよというあたりまえの認識になる。
だから追体験が可能なものはあたりまえになりやすい。


体験が不可能なあたりまえ

体験、観測が容易でないことでも一般概念化することがある。
国際条約や法律などでルール化されたものだ。生きている間に数度も観測できないような事象に対してもルールづくりがされる。ルールとなるものは大抵人々の知恵があつめられた集合知だ。


知恵というのは、体験や観測から学習されることが多い。
核や地雷などの兵器などを使わないというルールは一部のひとの悲惨な体験から人類が学習してつくられたルールだ。核兵器のようなものですら一度使われないと観測するのが難しい。


科学者からすれば想定した結果であっても、人間の想像力は体験には及ばない。
だから倫理は科学の進歩に対し常に遅れる。ルールや法律は倫理からさらに遅れる。


事件がない歴史

事故がおき、認識され、記録され、歴史になる。なにもおきなかったという歴史は存在しない。賢者が事件や事故を未然に防いでいたとしても、それは歴史としては記録されない。英雄は遅れてくるから英雄なのであって、未然に防いでしまったら英雄としてだれからも認識されない。人々の注意は常に事件がおきている側に向けられる。


環境が変化しても平常運転できるのことこそが素晴らしい。
だが、事故がおきないと観測することができない。変化がない事象を観測し、評価するのはとても難しい。変化がないものは気がつけない。野生の動物ですら動いて初めて認識する。


人類は聖者賢人ばかりではないので、必ず失敗は繰り返される。失敗こそが歴史だということを教えてくれる。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という格言があるけども、賢者はなかなかいないから賢者なのだ。歴史にのこるような事件がおきなければ学びようもない。



文化のギャップ

常識が通じない人達に遭遇した時に激しい拒絶感に陥ることがある。
日本民族については文化や風習が地域差とよべるレベルのものしかないので、社会風習レベルでのギャップを想像もできない人が多いようにおもう。
自分があたりまえと思っていて、周りの人もあたりまえだとおもっていることに対して、考えてもいなかった方向からの意見はそのひとの居心地を悪くすることがある。なぜならなぜそうしているのか理由もわからないほどあたりまえになってしまっているからだ。


なぜ家にあがるときに靴を脱がなければならないのですか?
なぜお店にあがるときには靴を脱がなくてもよいのですか?


言葉で言ってくれたならまだいい。しかしいきなり行動でしめされるとちょっと待って!!となる。
相手もそれがあたりまえだと思っているので「あたりまえ」同士の衝突がおきる。
衝突があるのがあたりまえと思っている多文化圏の民族と違いここでもあたりまえの差が出る。


最近、変な風な攘夷論がネット界隈で散見される。
鏡も使わずに自身を観測するのは難しい。
良さや悪さを知りたければ本来は外から観測するべきではあるが、他国の異質性ばかりを強調している感が強い。ならば自身のあたりまえは観測可能な状態になっているのか?比較対象な状態になっているのか?
中国はどうだとか、アメリカはどうだとか、ここから向こうを評したところで比較になっているものは少ない。
数字や統計というものは並べて初めて意味がある。あたりまえの環境下にあると本質や変化を見落とすことがある。



あたりまえを疑おう

millionとbillion間違えたから「さっきの取引なし!」というような手が打たれるとかなんだとか。
billionって米語じゃなくて英語だと、10億じゃくて1兆でしょ?という事をいうとバカ扱いされるけど、ちょっと一言。
日本の英語やビジネス英語ではbillionは10億はあたりまえだよね。

billion
【名】
1.〈米〉10億◆【略】B ; b ; bn. ; bln ; Bln ; BLN
2.〈英仏独〉1兆◆【略】B ; b ; bn. ; bln ; Bln ; BLN
byアルク先生

でも、10億じゃないところもある。colorをcolourと書くと日本の英語では点数が取れないだよね。


うん。まあそんなわけで、あたりまえだと思っていることや、自分の知っていることと相手の認識が違った場合、こいつ無知だなと笑らってすますことなかれ。自分の抱えている殻以上に大きくなるためには、なぜなにどうしてを忘れてちゃダメだよね。


変人のすすめ

今日はうがった見方をしよう!というすすめだったのだけど、世間でこういうあたりまえのことに疑問を呈したりすると変人あつかいをされるのでTPOは気をつけましょう。

この文章をここまで読めた人は根気強くてとてもすばらしいのだけど、もし、「よし!これからはあたりまえも疑おう!」なんて思ってしまっていたりしたら、あなたは既に素直すぎる。もしこれがグロ洗脳だったりしたらどうするつもりだったんだい?反省したら「あたりまえじゃない」とでもコメントするんだ。お、いま気がついたけど、「あたりまえじゃない。」って、アクセント次第でどっちの意味にもなる恐ろしい単語だ!