評価経済の評判と評価

最近、評価経済という単語をなにかと聞く気がするのです。オタキングあたりが言ってた。
で、そういうのを読んで、何か違和感を覚えたのです。
節子、それ評価ちゃう。ただの評判や!と思ったわけです。



評判===評価ではあかんです。足りません。政治家がかならずしも能力が高いからという評価で選ばれているわけではないように、最後まで手をあげ続けたとか、声をあげ続けるなど目立つための努力をしたひとが評判の対象となり、たとえプラス評価が1%もなかったとしても、集まった+評判の総量で高評価らしいということになってしまいます。それが評価として直感的にあってるかどうかは、現役大臣あたりの記者会見とか見ればわかるでしょ?



会社の評価には企業価値評価という分野があります。
企業の価値を真面目に科学する相応に科学された分野で、M&Aなどで価値算定などに用いられます。
会社の価値と一言で言っても、例えば預金や不動産、流動負債のようなP/Lに現れるような簿価資産から、取り組んでいるマーケットの占有率や規模、またマーケットの伸展性、ブランディング、のれん価値のような簿価外の価値もあります。さらにはその会社にいる、人材価値評価なども踏まえなければなりません。
こられらの価値評価をもとに、例えばその会社の解散価値を値踏みしその会社の価値をプライシングするわけです。


上場株式の場合、投資家がそれらの評価をして投資をするのですが、あれが上がりそうだとか、これが下がりそうだとかいう市場の下心が入り込みます。ここで、未来をある程度予測できる人間が何人かいたとしましょう。この人間が十分な資本を持って、かつ下心も持っていた場合、予測された未来に干渉して違う未来にしてしまうことができます。ケインズハイエクだとか、経済学がいつまでたっても傍からみると論争の域の中をうろうろしているのは、予測が結果に影響を与えるので予測が正しかったか、間違っていたかを証明する手段が無いからです。再現性がないのは科学じゃねぇ。


さて、株式取引など市場での価格決定に参加しているほとんどの投資家は会社の解散価値や市場価値などで購買行動にでるのではなく、「この株があがりそう」だとかいう下心により行動します。会社の価値が株価、時価総額などに現れるものだとすると、会社の価値を定めるものは、ただの株の価格のあがりさがりの潮流評価でしかありません。
じゃぁ、やっぱり大局としての価値はソーシャルな評判で評価できるんじゃないの?と、思うかもしれんが、やっぱり、ちょっとまったーー!です。うまく説明できないけどちょっとまったー!

理由は今考える。えっと・・・








再現性がない理論は論争の域を出ないみたいな事をいいましたが、現段階で人類がわかっている自然科学的な世界に照らし合わせてみると、例えば原子の周りを飛び回る電子の位置がどこに収縮するかは、シュレーディンガー波動関数よろしく、どこに電子が存在するかは確率論でしかわかりません。株価の三角収斂がどこに決着するかも同じようなもので解析的に分析するしかないのです。


・・・。
・・・・・・。
実は、うまく説明できないから何やら難しいことを言ってごまかそうとしています!


うん。
つまり、何かって言うと、y=2x+5みたいな方程式で、XとYが変動パラメーターが2つあるのに2つとも判らなかったら、どういう数直線上にそれらがあるかぐらいしかかわかんねーよ!ということです。シュレイディンガから一気にレベルが下がったなw


会社なり、人物なりを評価した”評判”の集合があったとして、その評判をした人の評価を踏まえなければ、その評判は比較することができません。口コミサイトで評判が金で買える、ステルスマーケティングという悪貨が紛れ込んだ瞬間に評判は機能しなくなります。市場も下心による市場操作が入り乱れた状態では、評価機能として機能しているとはいえません。


評価をするひとの評価が定まらないかぎり、その評価はy=2x+5の数直線上をうろうろする暫定的なものにしかならんのです。xさんによりされたyさんの評価はxさんの評価が-10か10で結果がまるで違ってきますのねん。



同じことは貨幣経済にも言えて、現在、その評価の基準となるべきお金の価値が揺れていること。
円ドルの為替をみても、それがどれだけ短期間で振幅していることがわかると思いますが、評価がなかなか安定しないお金というモノサシで人物や会社を評価するのは確かに困難な時代になったのではないかと思うわけです。同じように見えるけど去年の10万円と今年の10万円は価値が違うんだぜ?


かつてお金は金本位制など、金や銀という希少金属による評価で価値が計算されていました。
現在は、金本位制ではなく各国の中央銀行による管理通貨制度、変動為替相場制になっていますが、いってみればこれは国家の財政状態を担保にした価値算定のようなもので、もっといってしまえば国債本位制のようなものなのではないかと思うわけです。



日本では「供給される通貨」は原則日本銀行により提供されています。他の国も政府と中央銀行三権分立のようにわかれた存在です。じゃないと、財政が厳しくなるたびに供給過剰になっちゃうからね。
この供給される量こそが、国の通貨の”濃度”です。
為替や関税などというのは、情報化を経てヒトモノカネの流れの粘性係数が下がった現代において、お金の濃度が違う国ごとの間に挟まってなんとか濃度を一律に保とうとしている半透膜でしかありゃしません。


この半透膜にバイパスを作ってせっせせっせと儲けてる奴らも居るようですが、その儲けた行為自体が流動性をあげるための行為でしかないとおもうわけです。なんか諸行無常を感じますが、局所的にはそのような振る舞いも最適解でしょう。


だけど価値や評価は恒久的なものではありません。変化することだけが唯一不変なことなのです。
ってなんか宗教がかってきましたな・・・。



valuation(評価)はvaluationする過程こそが重要であり、観測してはじめて決定されると思うのです。
というわけで、稼ぎも資産も最下級浪人のうえ評判も集まらない私ですが、お金で買えない価値があるということでそろそろ飽きたので締めていいですか?


あれ?
本題の評価経済について書いてない気がした。
また、今度にでも書くね。残念な人保存の法則というのをさっき思いついたんだ。


企業価値評価 第4版 【上】

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企業価値評価 第4版 【下】

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