エンジニアの系譜

小学生の時、文集に書いた将来の夢はエンジニアだった。
どこをどう通ったかわからないが、今は紅茶屋をやっている。

戦中戦前ご先祖たちの職人の歴史

エンジニアというのはなんだろう?日本語に直すと職工や職人だろうか。
我が家の曾祖父や爺ちゃんは職人だった。ルーツをたどればどちらかというと一族は職人の系統がおおいのかなとおもう。父系は金細工とかをやっていて、皇族や海外の王族にものを納めるぐらいには腕は立ったらしい。(爺さんのいうことなので話しは半分で聞かなければならないが。)
というより、その時代はそういう身分の人しか買わなかったのだろう…。ビクトリアンだとかなんとかの秘宝でつくったもんが里帰りしただとかなんだと先日聞いたが詳細はしらん。


ひとつでも残しておいてくれれば、いまごろウハウハなのにとか思いつつも、持つことには興味がねぇから売れるんだというのが爺ちゃんの弁。なるほどと思う。超がつく贅沢品なので、戦中には生業が止められた。戦後もGHQとか踏み込んできてかっさらっていったと聞いっている。


戦争で生業であった贅沢品の取り扱いが禁止された爺さんは時計屋なるものを始めた。時計というと、すこしエンジニアリングの匂いがしだす。からくりだもんね。


東芝の始祖となった田中久重は細工師からカラクリ技師になった。日本が高度成長期にものづくりともてはやされた時代がきたのは、職人という人達がいて、職能分化として醸成されていたものがあったからではないかと考えている。今の大手の電機メーカーなどの社歴をたどると兵器開発で財をなしているということがわかるが、では、兵器開発を担ったのはどのような人達であったのだろうか。程度の差こそあれ、戦前から職工をしていた人達がささえたのではないかと思う。経営を担ったのが財閥系であったため実態はわかりにくくなっているが……。


戦後のエンジニアの歴史

父は時計屋は継がず、電気メーカーにエンジニアとして働きはじめた。
身内からみても生真面目なひとで献身的に働いていた。絵に描いたような団塊世代だ。まじめな人なので自分が小学生ぐらいのときにはすでに部長だった。その後も肩書はコロコロ変わったが、ずっと部長だった気がする。自分が中学だか高校のとき、なんとか部長だとかほにゃらら部長だとか部長が3つぐらいついた名刺をみせてくれて、実はこのどうでもよさそうな部長代理の役職が一番偉いんだとニコニコ説明をしてくれた。部長にも色々あるらしい。


うちの親は実にエンジニアっぽい。虚勢もはらず、自慢もせず、淡々と問題解決に挑む。いうなれば職人気質だ。そんな親にあこがれたから小学校の文集の時に将来の夢をエンジニアと書いたのだとおもう。


先日亡くなった母方の祖父は日本に半導体産業を作った立役者であったらしいのだが、父は逆にエンジニアリングの産業を海外に出した(出さざるを得なかった)人だ。久しぶりに海外赴任をしていた父に会いにいったら、白髪になっていて驚いたものだ。バブル崩壊後、バブルで浮かれていたわけでもないのに後始末に追われていた。


日本のメーカーにここ数十年の間に何が起きたのかは自分は詳しくは知らない。だがこの20年でエンジニアの問題解決力ではケツを持ちきれない何かが起きているのは、どんだけ鈍感でも気が付くというものだ。自分には父と同じように働らくのは無理だなと思った。そしてそれが求められてもいないなと思った。


氷河期世代のエンジニアの歴史

自分は76世代とよばれる団塊Jr世代で就職氷河期世代でもある。
父の背中を見て育っているので、ハナから大手に就職しようという気がなかった。父のように働くのは無理だとおもったし、また組織が大きくなってから大きな組織に参加しても、歳をとったころにはその組織はないぞというアドバイスを素直に受けとった。


大学を卒業するときの情勢をみて、これからは情報系だと思い、大学の専攻であった化学系とはまったく違ったのだが、ソフトウエアに進んだ。化学系は研究職以外の道がなさすぎてつぶしがきかないと思ったからだ。


就職先は社歴が若くて、人数が100人以下で、独立系のソフトウエアハウスを探して就職した。社会人にならないと見えない世界が色々あるとは思うが、まさに考えおよびもしない世界だった。
同期の新人は中途もあわせ8人居た。マナー研修のあと、自分は新人研修がすっとばされて、なぜか仕事をわりふられた。5月の頃には名刺を持たされて、課長や部長と一緒に納品のため出張をしていた。自分がつくったプログラムの納品だ。
何が起こったかわからねぇと思うが、新人がいきなり案件をまわしていたのだ。諸先輩方の万全なサポートがあったのでできたのには間違いがないが、なんだこれは???と思った。大手組織に入って数年も玉拾いをさせられるのはゴメンだと、小さい会社に入った。だが、こういうペースだとは思っていなかった。頭は完全にパニックしていた。


次に正気に戻ったときには何年かが経っていた。同期の数は半分になっていた。仕事を納められなくてフォローに入った会社が逃げだして裁判になったので、火消に大手が入ったが結局手に負えなくなったのをうちの営業が拾ってきたとか、そういうわけのわからないデスマーチを繰り返していた。
さらに数年が経ったころ同期はもう一人もいなかった。入っては辞めていき、会社には内緒のOB会のメンバーだけは充実していった。おかげさまで転職もせずに内外問わず数百名を超すエンジニアと仕事をしてこれた。


自分も会社を辞めたいと騒いではいたが、うまく辞めることができなかった。そして、どんどんどつぼに嵌っていった。まわりを巻き込まないように、ひとり部署をつくった。トレイルブレイズ部っていう中2病みたいな命名だったのはいまでも覚えている。


一緒に仕事をする同僚は尊敬できるし、いい仲間だった。ひとのいいやつほど残った。仕事は相当にタフだったけども、やりがいはあった。困っている人だらけなのだ。お客さんも同僚も困っていた。だから、もっと自分に裁量があれば、なんとかなるのではないかと思った。不毛な戦いをなんとかしたかった。でも、若かった。結果からいえば、さらにどつぼにはまっていっただけだった。


全力を尽くしても解決できるかわからない問題と向かい合い、デスマーチで戦友が死んでいく一方で、社長はベンツやポルシェ、そしてフェラーリに乗るような、判でおしたような中小企業の社長さんだった。そこにはバブルの名残があった。小さな会社なので、半年も居れば内情はおおよそ把握できる。
自分が社会にでるまでは回りにはこういう人達は居なかった。個人的な価値観として、所有とか自己顕示とかいうことに羨望感はまったくなかった。憧れが無かった分ドライに観察できた。なんでこの会社が存続できるのかその謎を知りたかった。分析をつづけた。わからなかった。わかったけど、わからなかった。


おれが悶々としていたその時代。
同じような年齢の人達がやる有限会社はてなはまだ3人で人力検索を始めたころだった。手にとるように内情がすけてみえて、その抱えている悩みすら微笑ましく楽しげで羨ましかった。


はてなのような向こう見ずにもなれないし、かといって大きな組織の歯車のひとつになるほどお利口さんにもなれない。そんな人は世間には多く居ると思う。自分もその一人だった。好奇心は猫をも殺すというが、首をつっこんでから逃げ出した世界は、ヒゲが焦げたぐらいで済んだのだろうか?全身火ぶくれになった気もする。30歳を前にふと我にかえった結果、逃げ出した。


技術職として、時代が経っても残せる、誇れる作品を作れているだろうか?と思った。自分のやっていることややってきた事を考えると悔しくなった。



悶々としっぱなしの俺は小屋を建て出した。文字通りノコギリとトンカチで建築をしだした。多くのひとの力を借り小屋はお店になり、喫茶店となった。


脱サラをして自営業を始めたと言えばそれまでだ。
だけど、自分がしたかったのはセルフエンプロイメント。他からの資本を居れず自分で自分を雇いたかった。
いまの時代は、父の時代よりも祖父の戦後混乱期の時代に近いのではないかと思う。エンジニアが裁量を発揮するためにはセルフエンプロイメントをするのが自分の進む道だと考えた。


お店をやりはじめて気がつけば今度は5年の月日が経過していた。
はてなはその間、株式会社になり、シリコンバレーに進出して、いつのまにやら有名企業になっていた。


うちのお店は赤字を計上しつづけている。
結果をとればただのバカだ。間抜けなことをやっている。自分も他の人が同じことをやっていたら諌めるかもしれない。理解を得られないであろうことがわかっているからセルフエンプロイなのだ。



近い将来にエンジニアの時代が来ると、紅茶屋は思っている。
紅茶屋は繰り返す。エンジニアが裁量をもって、仕事ができるようになる時代がくる。手に職がある人が、その技能で食っていける時代が来ると紅茶屋は言った。エンジニアの系譜は経済環境が悪化したことにより、より明白になる。

(゚д゚)<がんばれエンジニア。

高度に情報化がすすみエンジニアリングが発達した未来においてエンジニアと紅茶屋の区別はつかなくなる。紅茶屋はエンジニアを応援してます。でも、紅茶屋もただのエンジニアには負けません。


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